ブーゲンビリアと黄金仏塔の親日国ミャンマーへ 今こそ教育協力を!

小路 武彦 教授
医師薬学総合研究科

今やアジア最後の秘境といわれ、また未来展望が描ける最後の投資先として大いに脚光を浴びるミャンマー。今から25年前には「永遠に変わらないのではないか?」と危惧したミャンマーに歴史的な国家政策の転換期が訪れている。昭和30年代のほのかに温かい義理と人情の日本人を思い出させる人懐っこいミャンマーの人々の笑みが、天に轟こうとしている。

私がミャンマーを最初に訪問したのは、1987年の12月半ばであり、1月にかけての一ヶ月滞在した。人口は6千2百万人で、国土は日本の約2倍である。当時は東海大医学部助手で、免疫組織化学の開祖Paul K Nakane教授(当時東海大)の指導の下、濱島義博団長(当時京都大医学部教授)の指揮下に入り、ラングーン(現ヤンゴン)の医学研究局(DMR Lower Myanmar)でJICA派遣専門家として肝炎ウイルス遺伝子のin situ hybridization法による同定とその方法論の伝授を担当した。当時の国名はビルマ(Burma)であり、鎖国制社会主義の崩壊直前、まさに国連最貧国の状況下、極貧と強烈に黄金に輝く巨大仏塔にジュエダゴンパゴダが対照的であった。しかし、笑顔が絶えない敬虔な仏教徒達。周囲の人々の態度から直ぐに親日国家であることを悟った。乾季の限りなく濃厚な青空とブーゲンビリアの花の鮮やかな色彩を今も忘れない。

私は基礎医学の研究者であるが、多くの乳幼児が生後一年以内に命を落とし、国立病院では何の有効な治療もされずただ横たわっている人々を見て、自分は何をしに来たのか自問した。早朝からトディパームジュース(スカイビール)という天然酒を煽っていた。時間が余りに穏やかに流れるのに驚いていた。焦ってもどうしようもない、また焦る必要もない、人生最初の経験であった。更に本当のdiarrheaを経験し、一本10米ドルの純水で生きながらえ、帰国後も熱性疾患を患い、結局体重を無理なく10kg減らせた。

1990年12月から上記と同様に一ヶ月間、二度目の滞在をした。突然の新紙幣の導入(旧紙幣の無効化)を引き金に1988年に起こった社会的大惨劇は封印され、人々は何も語らず、ただJICA援助による高価な先端機器は使われることなく間違いなく老朽化していった。この時は、長崎大学医学部講師として参加し、意を決して当時の最先端の分子生物学手法の実技講習会をDMRで開催したところ、意外な程多数の医師・医学研究者が集まり、社会的困難さとは無関係なミャンマー国民の知的向上心に大いに感激した次第であった。この訪問の際、古都マンダレーとパガンを訪れ、蒙古軍に破壊されたパゴダの巨大遺跡群に接し、嘗てのこの国の繁栄に思いを馳せた次第である。JICAの評価委員として訪問された免疫学の泰斗、多田富雄教授(当時東京大)とご一緒し、貧困と圧政の中で人間性と知性を失わない国民性にエールした。多田先生は、「ビルマの島の木」を執筆され人間の心の深淵を抉って見せた。この訪問後ミャンマーの社会情勢は格段に悪化し、国際的孤立の中で日本のミャンマー関係事業の多くは停止した。

1996年、ミャンマー政府の経済開放政策に呼応するように、ミャンマーJICA projectの1987年以来の同志である岡田茂教授(当時岡山大)が、「ミャンマー国肝癌発生要因としてのサラセミア症の鉄過剰症と輸血関連疾患の調査研究」で文科省科学研究費がん特別研究を獲得され、その後特定領域研究として2000年度まで継続した。私もその頃は米国留学を得て助教授として帰国しており、班員として参加する機会を頂いた。その後、毎年12月にミャンマーを訪れ、DMRの病理学部門を中心として特に肝組織での鉄代謝関連遺伝子発現の検討に従事した。この頃からミャンマーは、現在に通じる変化を生じ始め、社会インフラの改善と共にヤンゴン市内にあった多数の竹造りの高床式住居は撤去され、海外資本による近代的ホテルが林立するに至った。実際には、通貨テャットの一層の下落とガソリン等の高騰で住民生活は窮乏していると思われたが、底抜けの明るさと笑顔は健在であった。研究活動に関して極めて驚いたのは、ミャンマーが国際的に孤立していたかに見えた時期、孤立化政策の旗頭であった米国は、連邦政府ではなく目立たない州政府レベルで莫大な資金をもってDMR等に援助・参入していたことである。日本が疎遠になった隙に研究協力関係を築き、日本が供与した建物や機器は米国グループとの研究推進の為に利用されたのである。同様な現象が、経済悪化に悩む日本を見据え、莫大な資金の下韓国政府機関(KOICA)の手で再現されつつある点を指摘したい。日本の援助は、余りに人間的で、いつもお人よしである。

2001年度からは「ミャンマー国に於ける環境毒性物質としての鉄による肝癌発症若年化に関する調査研究」で私が文科省科学研究費海外(B)を頂き、9年間継続的で安定した共同作業が行われた。既に生活環境も他のアジア諸国とそれ程差が感じられない程向上し、ビールも泡が出て苦みもある本当に旨い「マンダレー」(青ラベル)や「ミャンマー」(緑ラベル)となり、ピーナッツも発癌物質アフラトキシンを気にしないで食べられるようになった。しかしながら、薄切機器や顕微鏡などの基礎的機材は欠乏し、先端機器の維持・補修は覚束なく、相当の資金を導入しても砂漠にジョウロの感がある。先端機器の老朽化を見て思うには、先ず機器よりも「人間の育成」、自前の機材による独創的研究や医療貢献を可能とする教育が必要で、将来性のある有意の医学研究者を日本で教育し、人的基盤の抜本的整備に日本は支援すべきではないかということである。これが、自問してきた個人的解答である。まさにミャンマー人医療人材に日本国内で地に足の就いた教育を施すことが親日国ミャンマーへ日本国がなすべき事である。実際、その後毎年(2010年以降は、長崎大学学長裁量経費で支援)訪緬し、特にここ10年間は様々な組織細胞化学的方法論の実習コースを開催し、毎回の参加者は30-40名を越え、のべ400名近いミャンマー人医学研究者を鼓舞してきた。

長崎大学では、2007年2月にミャンマー国保健省医学研究局及び医科学局との間で学術交流協定を締結し、ミャンマー国全ての医、歯、薬、看護系等大学との交流が公的となった。2008年には学生実習中古の光学顕微鏡25台を病理診断用に寄贈した。また様々な費用を捻出して、これまで9名のミャンマー人医師を長崎で長・短期研修を行わせた。彼らが母国で出世して行く様を見て、また日本国に深く感謝する姿を見て疲労が吹き飛ぶのを感じる。数年前に、ミャンマー国中心地のNay Pyi Dawに突然遷都することが決まり、本当かと思っていたら大変な大都市計画のもと建設が進められ、今ではヤンゴンからコンクリート塗装の道路が一直線に伸び、超豪華な国会議事堂も完成している。2008年5月サイクロンNargisを被災し、14万人を一瞬にして失う想像を絶する破壊を被っても首都建設への情熱は不変であった。この国が世界グローバル化の中で、どのような位置付けを狙っているのかは勿論不明であるが、130を越える少数民族を数え、また大多数の貧困者を抱え、困難な状況の中にあることは間違いない。この極めて親日的で純朴で人間性豊かな愛せる人々が未来を描けるよう、人造りの点で貢献出来ればと祈念する次第である。これは決して先の戦争の負の遺産の清算等ではなく、親しいアジアの隣人としての責務である。

ヤンゴンにある医学研究局(南部)での分子組織細胞科学技術講習会(Wet-Lab)参加者の記念撮影 女性医師の参加が目立つ 長崎大学とミャンマー保健省医学研究局及び医科学局との包括的学術交流協定の調印式風景 前学長齋藤寛先生が署名を行った

ナルギス被災地の小学校へ長崎学生NPO(BOAT)からの支援物資の配布 筆者が間をとりもった 中身はほとんど文房具 我々は教育(学問)こそ困難な現実を切り拓くと信じる

保健省医学研究所開所50周年事業が国家的行事として行われ、筆者も25年来の友人として表彰された次第である

CICORNニュースレター第3号(平成25年12月号)掲載記事
http://hdl.handle.net/10069/34014