-海外拠点便り- ベトナム=デング熱とSFTS:社会構造の変化との関わり=

角田 隆 助教
熱帯医学研究所

昨年の夏、国内でおよそ70年ぶりにデング熱患者が発生したことは記憶に新しい。70年前といえば日本はまだ終戦直後であった。当時、南方から引き上げた人たちと一緒にデングウイルスが大阪や長崎に持ち込まれ、消火用の桶に入った汲み置き水などから発生したヒトスジシマカが媒介したらしい。それからは最近に至るまでデング熱患者といえば海外への出張や旅行の際に現地で蚊に刺された場合に限られていた。

デングウイルスを媒介する蚊にはヒトスジシマカの他にネッタイシマカがいる。こちらは成田空港近くで採集されたという例はあっても、日本では越冬できないため、国内に定着したという報告はない。ハノイに実際に住んでみてわかったことなのだが、ベトナムでも北部の冬は寒い。それでもネッタイシマカは家の床下の貯水槽で発生する。貯水槽の水温はほぼ一定で、一年を通じて20 度以上なのである。一方、ヒトスジシマカはもともと西日本に生息していた種なのだが、休眠という方法で冬を乗りきれるため分布を北へと広げている。

ふつう蚊の発生場所というと沼地や湿地を思い浮かべるが、デング熱を媒介する蚊は雨水の溜まった空き缶や空き瓶からでも発生できる。ボウフラの天敵はヤゴに代表される水生昆虫や魚である。公園の雨水桝には時おり他の蚊の幼虫を食べるカクイカという種がいることがあるが、都市部であればほとんどの場合天敵に襲われる心配はないといってよい。

ところで、蚊は卵を産む時だけ雌が吸血するのであって、普段は雄も雌も花の蜜や果汁などを吸っている。都心に生息するスズメバチはゴミ箱に捨てられた缶ジュースに残った液も餌としているのだが、体の小さい蚊にとっては缶の口の部分に残った一滴でも十分な量に違いない。そして、雌のネッタイシマカやヒトスジシマカは人の血をとても好む。幼虫時に天敵に襲われる心配もなく、成虫になったら普段の餌も卵を産む時のごちそうも豊富にある。都心は彼らにとっていわば理想郷であり、デング熱が東南アジアや南米の大都市で流行するのはこれらの蚊が都市に適応した昆虫であることにほかならない。

今のところデング熱には有効なワクチンはない。大都市への人口流入は世界的な傾向であるため、熱帯や亜熱帯でのデング熱の流行は今後も続くであろう。ハノイでは周辺の地方から移住してきた人たちは5 年以内に感染するリスクが非常に高い。ハノイの都心部にデング熱の流行地があり、地方から来た人たちにはデングウイルスに対する免疫が無いためである。地方からハノイへの人の流れが今後も続く限り、デング熱の流行は途絶えないであろう。

では、人が離れていった地方の農村はどうなっていくのであろうか。

デング熱よりも前に、重症熱性血小板減少症候群( 以下、SFTS) という病気が日本で問題になった。この病気は2009年に中国で最初に発見され、わが国でも一昨年から西日本を中心に患者が発生している。SFTS ウイルスはマダニによって媒介される。マダニはふつう野山にいて動物や鳥に寄生するのであるが、人がマダニのいる環境に入り込んでいくと人の衣服に取り付き、それから服の中に潜り込んで咬着する。蚊は雌親しか吸血しないが、マダニは幼虫から成虫まで動物の血を餌にする。もちろん雌も吸血し、ふつう数千個の卵を産む。

さて、今、日本各地でシカやイノシシが問題になっている。農村では高齢化に伴って過疎化が急激に進み、山林には人手が行き届かなくなり、田畑では休耕地が増え続けている。かつては動物たちにとって人間が住む場所と自分たちの住む場所とに明確な境界があったのだが、しっかり管理されなくなった里山ではその境界が曖昧になったように思える。唯一彼らを山に追いやっていた猟師も平均年齢が65歳を超え、今では動物たちの増え方が早すぎて駆除が追いつかなくなりつつある。

マダニは種によって寄生する動物が異なる。西日本でヒトを咬むマダニのうち最も被害の多いのがタカサゴキララマダニで、成虫はシカやイノシシのような大型獣に寄生する。次に多いのがフタトゲチマダニであり、わが国では昔から牛のピロプラズマ症の害虫として知られていた。どちらのマダニも体内からSFTS の遺伝子が検出されており、SFTS の重要な媒介者であると考えられる。シカやイノシシが里山に頻繁に出没するようになれば、当然これらの動物から離脱したマダニに咬まれ、病原体に感染するリスクは高まる。

シカもイノシシも本来雪の多い場所では生き残れない動物である。しかしながらどちらも近年、山地ではさらに標高の高い場所へ、平地では北へと生息域を広げている。地球温暖化といわれる現象に人間の活動がどれだけ影響するのかは議論の絶えない問題であるが、動物たちは人間のもたらした環境の変化にちゃっかりと適応しているようにも見える。

第一次産業就労者の大幅な減少をはじめとして戦後70年の間に日本の社会構造は劇的に変化した。たまたま著者の専門である衛生動物に関わる社会問題が最近続いておきたため、デング熱とSFTS という蚊とダニがもたらす病気を都市への人口流入と農村部の過疎化という社会的な視点から取り上げてみた。ネッタイシマカの都心定着もSFTS 患者のハノイ市郊外での発生も70年後には起こっていそうな予感もするのだが、それは後の世代の方々に見ていただくとして、我々は身近な出来事の変化を見逃さず、きちんと記録として残しておくとしよう。

CICORNニュースレター第5号(平成27年3月号)掲載記事
http://hdl.handle.net/10069/35132